2012/01/15

屋代勝永館跡

戦国武将屋代勝永の館跡発掘調査が北杜市教育委員会の手により進められている。写真正面に土塁(一部)が見える。この現場、銀杏工房前の道に面している。
その土塁はすでに旧明野村の文化遺産に登録されている。ここには堀もあった。土塁があれば堀もある。堀を掘った時に出た土を掻上げて土塁はできあがるのである。工房は200mほど先右側。
土塁の内側はこんな具合、排水処理の水路のように見える。
様々な形の穴がある。もっとも多いのがこれ、一つ穴。多分掘っ立て柱の穴だろう。
こんな2本穴もある
少し大きくて深い穴、水が湧いている、井戸か。
屋代勝永は名門信濃源氏村上氏の出だが、武田晴信(信玄)方に寝返ることで村上氏が滅んだ後も生き延びた。信玄亡きあとは上杉方に付いて織豊時代を生き、家康が勢力を得ると徳川方について戦国を生き延びた。その後領地(ここ)を召し上げられるが、その子の時代に許され安房に1万石を賜り大名となる。子孫は徳川の世をも全うするのである。ここに館を構えていたのはそう長くない。徳川方についた初期の10数年、北の真田に対する備えのようである。大阪冬、夏の陣にはここから出陣し旗頭を務めている。今から400年以上昔の話だ。
この館址もこの少し先の縄文遺跡と同様、土地改良工事のために消えてしまうらしい。縄文遺跡発掘調査の時にも書いたが、耕作放棄地があるのになぜ遺跡を潰してまで新たな田を作らねばならないのだろう。(事情があるのだろうが)。残念ながら教育委員会の地元への現地調査報告会に参加することは出来なかった。

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