2011/02/23

屋代勝永

戦国時代を駆け抜けた屋代勝永という武将がいた。銀杏工房から100mほど行った右手にその居館跡の土塁の一部が残っており、旧明野村の文化財として指定されている。

屋代氏は源氏の名門信濃村上氏の出で代々信濃の一部を治めていたが、武田晴信(信玄)の調略で主家村上氏を捨て武田方につく。そのこともあって武田氏は村上氏を破り躍進するが、晴信の死後、長篠の戦いで信長に敗れ、やがて滅亡する。武田方についた屋代正国は2人の息子をその戦いで失い、甥の勝永に家督を譲る。勝永は武田氏が滅びたあと上杉景勝につくが謀反を企てる。それがばれると、徳川を頼って信濃を落ちることになる。

家康(直接的には家老酒井忠次)に仕えた勝永は慶長19年(1614年)大阪冬の陣で徳川軍の旗頭を勤めている。その同じ年この地に領地を与えられ居館を築いた

塩川対岸の須玉には三枝氏そして真田氏(ここがややこしい、真田家は戦国を生き延びるため男子の1人(真田幸村)を豊臣方に、もう1人を徳川方につけることで家名の絶えるのを防いだ)と重厚な布陣を敷いたのは上田の真田氏(豊臣方)に対する押さえだったようだ。

勝永はここに1万石ほどを領有し元和9年(1623年)66歳で没した。菩提寺の勝永寺は工房前を数10m下ったところにある。長男忠正は家督を継ぎ、従5位下越中の守に任じられたが、寛永9年(1632年)酒井家の不祥事に巻き込まれ領地没収、居館も廃止される。やがて赦され安房(千葉県)に1万石を賜った。武士の世は厳しい。

以上のようなことが碑には書いてある。
400年ほど前、銀杏工房の前を戦国武者が行き来していたようである。

2011/02/17

G棟について

雪が止むとご覧のような晴天で銀杏工房越しにアルプスの山々が見える。冬の降雪のあとなればこそこのクリアな景色。春から秋までは晴れても山はかすんで見える。右端にわずかに大銀杏も見える。さて今日は工房の隣、チョコレート色の外壁のG棟(7番目の棟なのでG棟、ちなみに銀杏工房はA棟)について。
解体する予定でいた。ところが壊すのが惜しくなった。利用しようと思う。鉄骨造の無柱空間で雨漏りはなく柱も垂直に立っている。木造の母屋(B棟)とえらい違いだ。それに何と言ってもご覧のように日の出と共に朝日が入ってくる。これは得がたい。
それにしてもこの有様。
ここに高気密・高断熱の暖かい部屋を作る。いや~やりがいありそうだ。
まるで当初のA棟と同じ、ものは考えようだが、つまりそれと同等には出来るという意味か?
ま、長期戦になるかな。

2011/02/06

建具製作Z

建具Zが完成した。それはアプローチのシーサーの前にある。
アプローチの全景だが、この建具の完成で外装は変わらないのに、この空間が随分と引き締まったものになってきた。
工房には光が燦々と降り注ぐし、出入りもしやすくなった。この開き戸は古い引き戸の再利用。
高さを切り詰め、型硝子を透明にし腰には羽目板を張った。色はキシラデコールの「エボニー」。
ほぼ黒、取っ手は真鍮でアクセントになっている。
窓からは集落の向こうにアルプスの山々。鳳凰3山だ。右に甲斐駒も見える。手前には去年植えた吉野桜、枝には沢山の新芽。4月に咲くだろう。
そうしたら今年はここで花見だ。

こんな道具が

こんな道具を入手した。薪割りの道具だが丸太の裂け目に先端を当て、黒いラバーグリップの上の方(筒の内側に重りが付いている)を持ち上げガツンと落とすと反動で先端が丸太に喰い込んで丸太が割れるのだ。
斧で割るような豪快さはないが確実そして安全に割ることができる。北欧で開発されたそうだ、彼の地ではこの薪のようなバイオ燃料に関する意識が高く、子供でも薪を安全に割れる道具が必要だったと友人から借りた「薪の本」に書いてあった。
丸太が薪になって薪小屋に並んだ
しかし薪小屋はまだスカスカ。
別の友人だが木を3本切るそうだ。もちろん手ぐすね引いて、今か今かと待っている